民主国家と知識

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知識は、定義により正しさを備えている。知識がいかに正しいかという正しさについての絶対的な尺度はない。その正しさの由来は、いくつかの手続きを経ていることによるといえるだろう。たとえば科学的な知識は、学問の世界で正しいと認められたものである。また、学問以外に由来する知識は、その正しさはある仕方で認められたものなのである。ある仕方とは、市場活動の結果であったり、製造過程のコツであったり、古くから受け継がれてきた習慣であったりする。知識が正しいと判断される過程は、いろいろな形態がある。

本節においては、現代の民主主義国家がもっている知識の正統化の働きとその働きの弱体化に眼を向けてみる。民主国家においては、国家が法令の制定、行政、裁判をはじめもろもろの政府としての活動を行っており、それが民主主義というイデオロギーの下でなされている。そのような国家の活動が、我々の生活を、そして考え方の根本となる知識の枠組みを形成している。民主主義のイデオロギーとは、選挙で選ばれた国民の代表が決めたことや行政によるその実施は、守らなければいけないというものである。民の代表が決めているので、その決定の正統性はさらに高いものであるとみなされる。

我々の社会を支えている知識の枠組みは民主国家によって提供される。逆にまた知識は民主国家を支えているともいえる。民主国家と知識生産活動は、おおまかに言えばこれまで相互に支えあう状態であった。今後はその民主国家と知識生産の支えあいの関係は変わるであろう。

民主主義のイデオロギーは、それ自体正しいものとして受け止める向きもあるであろう。しかし、米国の文明史家ルイス・マンフォードは民主主義のイデオロギーは、統治権力、経済活動、知識生産と深く関わり合っていると指摘している。マンフォードの見方を、簡単にいえば、20世紀に国家の権力は、経済成長に支えられ、科学技術と軍事的強制力によって強化されてきた。そして民主主義という名のもと、人々が国家の主人公であるという建前をとることによって、国家権力はより正統化されてきたのである。

民主主義国家の発展と科学技術


歴史的に民主主義国家がどのようにつくられ、そのなかで経済や科学技術がどのような役割を果たしたか。ルイス・マンスフィールドの見解を下敷きに、他の先哲の著作も含め私なりに描いてみる(マンスフィールド、1973)。

1789年に起きたフランス革命により、ルイ王朝は打倒され、共和制が始まった。王制の否定は、社会は誰によって統治されるべきかという問題を引き起こした。これに対して、いろいろな説が唱えられていたが、人々が(社会と)契約することにより、国家が維持され、人々が保護されるという見方をルソーは唱えた。この社会契約論は、王制を打倒する有力な理屈づけとなったのである。こうして社会契約を理想に掲げる国家が誕生した。議会制度が強化され、人々の意思を決める舞台となった。1776年の独立戦争によって生まれた米国とともに民主主義を唱える国家が誕生した。18世紀から20世紀にかけてそれが次第に発達するのである。

この政治変革の背景となったといわれる経済社会の動きは、18世紀の産業革命である。蒸気エネルギーと機械を用いた資本主義経済の下で、富裕層が力をもつようになった。彼らの文化が発達し、新興の富裕層による統治形態として民主主義が生まれた。他方、資本主義の発達のもとで工場や鉱山に働く、労働者階級が増加した。労働者層は一九世紀、悲惨な生活レベルに留め置かれるが、やがて共産主義の政治的イデオロギーが形成される。20世紀には、共産主義国家の壮大な社会実験がなされた。

19世紀に入り、しばらくのうちは、国家は、ブルジョワ市民階層に介入するべきではないとされ、夜警国家としての機能が求められた。ヨーロッパの国家は、物資と覇権をめぐって対立と戦争を続けた。

そのなかで、従来は、戦争は貴族や兵士によって行われていたが、民主国家においては、民主主義的な意思決定による全体意思として国民は、国家による戦争に巻き込まれるようになった。ナポレオンは徴

兵制度を用いて、ヨーロッパ征服の戦争を行った。ここに国家による戦争への総動員体制の原型が生まれた。また、議会のもとに法律による行政を行う官僚機構が生まれた。

民主主義は、自由、平等、博愛というスローガンを掲げ、人間を王権からの束縛から解放するようにみられたが、人間は新たな権力支配構造に組み込まれるのであった。その権力構造の一つとして科学技術は存在した。また同時に科学技術の発達は、経済発展につながり、富を拡大した。そして、経済発展によって民主主義への支持が広まったのである。

現代の科学技術と政治経済の関係について、竹内啓は、科学技術のもつ社会の変革の力が近代の文明の基盤であるとする(竹内、1995)。そして科学技術は、政治にとっては権力の維持に、経済にとっては富の蓄積に用いられるものである。政治・経済は、科学技術の進み方を支える役割をもっている。

他方、科学技術はそれらによって用いられることにより、研究資金の流入と研究を行うことの正統性を与えられるものである。科学技術と政治経済社会は相互に絡み合った複合体となっているのである。

科学技術の発達という点からみても、人々の生活の向上に大きく寄与する面と科学技術によって戦争の規模が大きくなり、また国家による社会の統制や人間の動員力が強まった面があったことが知られる。

19世紀において、技術によってつくられた製品は、繊維製品や鉄道、船などの生活上の必需品であった。これと同時代的に自然科学が急速に進歩をとげる。

20世紀に入ると、科学的知識が技術に応用されるようになった。電化製品が誕生し、自動車が普及した。戦争は、大規模化し、科学技術力を動員するものとなった。飛行機、戦車、機関銃、毒ガス、巨大戦艦などが生産された。1917年、ロシア革命によって、共産主義国家が誕生した。また後発工業国であった日本、ドイツ、イタリアは民主主義による国家運営には至らず、全体主義にとってかわられ、第二次世界大戦が起きた。このときラジオや映画は、人々の洗脳と動員に大きな力を発揮した。このとき、兵力も経済も科学技術も、すべてを国家が動員するという体制ができたのである。科学技術水準と経済力によって戦争の帰趨が決まった。米国のマンハッタン計画による原爆の開発と投下は、その絶頂であった。さらに米ソ冷戦は、原水爆の際限ない開発競争をもたらした。

大量生産とホワイトカラーの増加


20世紀後半、大規模生産が普及し、巨大企業も出現した。同時に大量の労働者(ブルーカラー)と、ホワイトカラーが必要とされた。他方、共産主義、社会主義のイデオロギーヘの対抗もあり、国家は、医療、年金などの社会保障や、教育にも力を注ぐ福祉国家に転じるようになった。雇用の維持も政府の役割とされた。政府は肥大し、行政機構はさらに強力になった。その行政機構は、各種の統計や情報を駆使した専門官僚によって動かされている。社会政策においても社会科学によって科学的分析と予測が試みられるようになった。

技術史家の中岡哲郎によれば、20世紀前半は、労働力節減、家事代替型の機械の生産が大きな産業となった。20世紀後半は、テレビやビデオ、音響機器といった余暇、娯楽を提供する機械の生産が大きな産業となった(中岡、1990)。それにより、人々の欲望は刺激され、消費を増やし、経済を成長させることができたのである(見田、1996)。

ここに至り、民主主義国家は欲望の刺激により消費を増大させ、経済成長を遂げることにより安定するようになった。生産力の拡大によって、人々の生活水準は向上し、欲望を充足した。多くの先進国においては、民主主義的政治制度は、経済のパイの拡大と表裏一体のものであった。すなわち分け前の増加によって、人々は満足を得、政治体制を支持したのであった。人々の生活水準は向上し、欲望を充足し、民主主義は支持された。

こうして、民主主義の名による権威と、法律による行政という正統性と、科学的知識の裏づけと、加えて軍事的強制力により、国家は圧倒的な政治権力をもつに至った(マンフォード、1973)。さらに、国家と大企業に情報が集中した。というよりも、組織内において情報が蓄積された。したがって、組織が大きければ、集まる情報も多かった。

 【引用】

木場隆夫(2003)「知識社会のゆくえ:プチ専門家症候群を超えて」日本経済評論社



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